本研究は,中国東南地域の諸方言の言語データを詳細に調査・分析することを通して,事態把握に関する中国語の特徴を明らかにした。近年の認知言語学の成果によって研究が進んでいる事態把握の問題に関して,比較方言文法の手法を用いて調査・分析を行った。 中国語は客観的事態把握を好む言語であるといわれるが,その傾向は官話と呼ばれる北方方言においてとくに顕著であることが明らかとなった。北方方言では,話し手は事態の外に身を置いて,傍観者ないし観察者の視点から事態を捉える客観的事態把握を好む傾向が見られる。これに対して,東南地域の諸方言では,話し手は事態の中に身を置いて,体験者の視点から事態を捉える主観的事態把握を好む傾向が見られる。 東南方言では受動文や処置文の使用頻度が低いといわれるが,各地のデータを詳細に分析すると,その使用条件は同一ではなく,地域によって差異があることが明らかとなった。また,受動文や処置文の使用頻度が低い地域では,それに代わる形式として,PAV型(対象+動作者+動作)の二重主語文が多用されることも明らかとなった。さらに,北方方言ではきわめて成立が難しいといわれるAPV型(動作者+対象+動作)の二重主語文が東南方言では多用されることと,受動文や処置文の使用頻度が低いという現象には,事態把握の違いに関わる構文的関連があることが明らかとなった。 近年の文法研究は,事態把握に関する中国語の特徴をさまざまな角度から検証しているが,それらの多くは北方方言を基礎とした“普通話”と呼ばれる標準語のデータに基づいて分析を行っている。そのため,本研究が示したような,東南地域の諸方言では,同一の事態に対して北方方言とは異なる言語表現を用いるという事実が看過されてきた。本研究は,受動文や処置文,二重主語文といった構文に対する調査・分析を通して,中国語の事態把握に関する南北の差異を明らかにした。
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