研究課題/領域番号 |
18K00624
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研究機関 | 武蔵大学 |
研究代表者 |
小川 栄一 武蔵大学, 人文学部, 教授 (70160744)
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研究期間 (年度) |
2018-04-01 – 2023-03-31
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キーワード | 談話分析 / コミュニケーション / 敬語行動 / 浮世風呂 / 江戸語 / 江戸の経済 |
研究実績の概要 |
今期は、2022年3月に論文「式亭三馬『浮世風呂』における敬語と経済的背景」を発表した。 『浮世風呂』(式亭三馬作の滑稽本 4編9冊 文化6~10年 1809~13)の敬語に関するデータベースファイル2種をもとに『浮世風呂』における敬語使用の分析を行い、従来の指摘のとおり、階層が高くなるほど敬語使用率も高くなることを実証的に確かめた(従来は明確な数値を表して論じられていたわけではない)。その上で、階層と敬語使用の関係について考察した。階層とは何かといえば、所得の多少によって規定できる。商人は、一般的にどのようなコミュニケーション特性をもっていたかといえば、商取引の現場においては顧客との友好的なコミュニケーションが重要であり、顧客との良好な関係を築く必要がある。敬語を含めて丁寧なことばづかいは商人にとって不可欠であった。その結果、江戸における経済発展が敬語使用にも大きく影響した。この傾向は所得の高低とも明瞭に相関する。所得の高い上層ほど敬語使用率の高くなることを明らかにした。 そもそも敬語は一般的に人物に距離をおく表現である。敬語の多用は疎遠な態度にもつながる。ブラウン&レヴィンソンの提唱したポライトネス理論からすれば、敬語はネガティブ・ポライトネスの表現である。親密な人間関係においては、敬語の使用はかえって親密さを崩すことにもなり、敬語を用いないことが一般である。ところが、ビジネスにおけるコミュニケーションでは、むしろ一定の距離感が有効である。敬語には、他者と適度な距離を保ちつつ、一定の待遇関係を構築するはたらきがある。この機能を「人間関係構築機能」と呼ぶ。これは商業活動において特に有効である。それまで、江戸語のことばづかいは荒いといわれてきたが、経済発達の結果、高度な商業活動を行い、所得の高い上層町人を中心に敬語使用率も高くなって、荒さが緩和されたものと考えられる。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
研究成果の進捗状況は「研究実績の概要」に記したが、さらにその内容を補足する。 敬語と経済的背景を考える上で、式亭三馬自身も薬種商を営み、日本橋本町二丁目に「式亭正鋪」を開業したことを視野に入れよう。江戸の経済状況について、当時の資料を博捜し、数量的な分析を行った山室恭子は、江戸の商人たちの結成していた同業者組合のグループ「番組」に着目し、番組編成の地域割りの仕方から、全域型(店舗は江戸全域に散在する)、特化型(店舗は営業に便利な特定地域に集中する)、都心型(店舗は日本橋周辺の繁華街に集中する)の3類型に分類している。このうち、都心型とは、薬種問屋・呉服問屋・小間物問屋などを始め贅沢品を扱う業種で、付加価値は高めで多様性に富み、利益率の大きな商いである。番組編成はなくて、狭い日本橋地区に集中立地し、同業者どうしで顧客を奪い合う自由競争を特徴とする。式亭三馬の営んだ薬種業はこの都心型に属する。同業者どうしの競争が激しく、三馬自身も競争の渦中におかれていた。『浮世風呂』にもヒット商品となった「江戸の水」(おしろいの下地に使う化粧水)を始め、式亭正鋪で扱う商品に関する会話が随所に表れている。宣伝を兼ねていたわけである。『浮世風呂』における敬語使用の傾向も、三馬の商店経営に裏打ちされたものである。適切な敬語使用は商売の成功にとって重要なものであったと考えられる。経済活動における敬語の必要性は現代にも通用する。最も敬語が必要とされるのは、おそらくビジネスの場、特に接客や交渉の場面においてであろう。現在、敬語に関する指南書がビジネス書として数多く出版されているが、その原因は接客に従事する企業関係者からの需要が多いからと見なすことができる。敬語の使用は現代のビジネスにおいてもなお重要であり、その淵源は『浮世風呂』に表れる江戸の上層町人を始めとする敬語使用にあったものと考えられる。
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今後の研究の推進方策 |
今後は、『浮世風呂』における敬語使用とコミュニケーションの類型について、両者を関連させて研究を進めていく。あらかじめ見通しを述べておく。 『浮世風呂』における敬語使用率の高低によって、その会話を2種の型に区分することができる。敬語使用率の高低は階層と相関するが、同一の人物でも会話の相手によっては両種を使い分けることがあるので、基本的には階層と独立した変数と見なす。敬語使用率の高い会話とは協調的なコミュニケーションであり、話し手・聞き手の人間関係はより疎遠である。これに対して、敬語使用率の低い会話は競争的なコミュニケーションであり、人間関係としてはより親密である。このような2類が共存する背景を考察する。江戸はそもそも徳川氏の移封から江戸幕府開設に伴って発展した都市で、日本各地から移住してきた人たちが集合して居住することになったために、相互の人間関係はそもそも疎遠であったと考えられる。その後も各地から上京する人が多く、疎遠な人間関係はそのまま継続され、これが江戸語における敬語多用の背景にあったと考える。また、江戸の経済的な発展に伴って、富裕な商人が現出することになったが、巨額な商取引の必要からも敬語を多用する傾向があった。この結果として、江戸の中上層の町人において敬語使用率の高い会話が用いられたものと考えられる。その一方で、商家の使用人や職人などは、多人数で共用する部屋や横町の長屋など、接近した住まいという環境の中で、比較的に親密な人間関係を形成し、江戸の下層市民として定着したと考えられる。このような人々にとっては、むしろ敬語使用率の低い会話の方がふさわしかった。このような経緯によって、江戸語におけるコミュニケーションの2類が発生したものと考える。 今後の研究の推進方策としては、以上の見通しに沿って、『浮世風呂』のデータベースを活用し、計量的に明らかにしていきたい。
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次年度使用額が生じた理由 |
データベース作成に必要な作業は、学生等のアルバイトを必要とせず、研究代表者自身によって効率よく実施することができたため、当初予定していた人件費支出が今年度は不要となった。『浮世風呂』の敬語使用を研究するのにあたり、先学の研究書を参考にする必要が生じたが、武蔵大学図書館に所蔵されていなかったので、急遽購入することとなった。これらの使用予定変更により、次年度使用額が生じたが、次年度研究費と合わせて研究用物品の購入費用とする予定である。
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