研究課題/領域番号 |
18K00726
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研究機関 | 関西大学 |
研究代表者 |
竹口 智之 関西大学, 国際教育センター, 留学生別科特任常勤講師 (80542604)
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研究期間 (年度) |
2018-04-01 – 2022-03-31
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キーワード | 日本語教育史 / ハバロフスク市 / ウラジオストク市 / 戦中の日本語教育との関連 |
研究実績の概要 |
今年度はこれまでのデータをまとめ上げ、各学会・研究会での発表に力を注いだ。 一つ目は、ウラジオストク市とハバロフスク市で日本語教育に従事したゲオルギー・ペルミャコフ氏の生涯である。氏は帝政ロシア時代に生まれ、その後一家でハルビンに移住した。ハルビンは多民族が集住する町であり、氏は日本語を含む様々な言語を駆使するマルチリンガルとなった。戦後ハバロフスク市に移住するも、定期的にウラジオストク市の大学で日本学も指導する立場となった。ハバロフスク市では90年代から私塾を開き、日本語を教えはじめた。ハバロフスク市の高等教育機関で日本語教育が始まる以前のことである。 ペルミャコフ氏の教育内容から、満洲時代に受けた教育の影響があるのではないかと推測される。満洲時代に行われた日本語教育と、氏がハバロフスク市で行っていた日本語教育に関連があるのかさらに分析する必要がある。 二つ目は、日系ロシア人であるソコロフ・コンスタンチン・コンスタンチノビッチ氏の生涯である。1956年に日本からウラジオストク市に移住し、同市の高等教育機関で日本語教育に従事した。彼は「母語話者」として役割が期待され、会話教材などの作成にあたっていた。その後ハバロフスク市に移住し、日本語のラジオ放送スタッフ、企業の通訳・翻訳、市内の大学教員として従事している。特に90年代初頭から始めた日本語教育は氏にとって充実した年月であったという。 上記はコンスタンチノビッチ氏の関係者からの話であるが、氏のみならず、何人かの日系ロシア人がラジオ局等に勤務していた。このことから、氏は自身の「日本・日本人性」をソ連国内でもアイコンとして使っていた可能性が高いと思われる。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
3: やや遅れている
理由
COVID-19により、海外渡航はもちろんのこと、国内移動も著しく制限された。当初予定していたウラジオストクへの渡航は中止にせざるを得なかった。
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今後の研究の推進方策 |
今年も海外渡航は制限されている。また仮に渡航できたとしても、一定期間隔離生活を余儀なくされることから、ロシア渡航は極めて困難だと思われる。さらに、国内移動も引き続き感染の危険が伴う。このため、ハバロフスク市・ウラジオストク市の日本語教育史は、日本国内で行おうと考えている。 ハバロフスク市の日本語教育については以下のように考えている。コンスタンチノビッチ氏の教育内容について詳細は窺うことができていない。スノ―ボールサンプリング法により、氏の教育を受けた学習者が国内におり、連絡先を確保している。このため、この元学習者に連絡を取り、コンスタンチノビッチ氏の教育内容を窺い、ひいてはハバロフスク市内の日本語教育の概況を分析したい。 ウラジオストク市の日本語教育については以下の通りである。極東連邦大学(ウラジオストク市)は函館に分校があり、教育スタッフの多くが極東連邦大学出身者である。こちらの方々と連絡を取り、以下の内容をインタビューする。それは、(1)自身が受けた当地での教育内容と、日本語教育の概況、(2)なぜ日本語を学んだかなどである。 上記はいずれも人間関係、ネットワーク頼みであり、その点では調査の確実性がやや心もとないともいえるが、様々な連絡手段を用いて実施したいと考えている。
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次年度使用額が生じた理由 |
COVID-19により、計画していたウラジオストクへの出向ができなかったため。また国内での研究も移動がままならず、学会発表もオンライン開催がほとんであったことなどがその原因である。 今年度は前年度の反省から、オンラインによるインタビューを数多く実施し、未使用に終わった受給額を使用したい。
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