富士信仰に基づいて小谷三志(1765-1841)が組織した「不二道(不二孝)」については、これまで関東地方を事例として研究が行われてきた。これに対して、本研究は江戸時代後期から明治初期の近畿・東海地方において、この信者組織がどのように拡大し、信者同士のネットワークがいかなるものであったかを検討するものであった。この目的を果たすため、伊勢国多気郡朝柄村(現 三重県多気町)の岡山友清(1789-1878)関係文書の調査を行った。 岡山友清は、不二道の実践道徳とその日常生活への応用を重視する立場から稲の品種改良を行った篤農家として知られている。岡山友清が遺した文書には、農業に関するものも多いが、他を圧倒する質量の不二道に関する著作・写本・草稿、不二道信者との書状が存在する。書状の中では、大坂町人の平野屋重蔵(信者名:清行友治)との間で取り交わされたものが多く、この人物を中心とする信者間ネットワークが存在したことが分かった。また、江戸における富士信仰の拡大に寄与したとされる食行身禄(1671-1733)の実家の小林家は、伊勢国一志郡川上村(現 三重県津市)にあり、関東の不二道信者もここをたびたび訪れ、教義書の写本や自らの著作を献納している。当文書には、岡山友清が関東の不二道信者を自宅に宿泊させて教義について問答し、小林家に献納された教義書などを写していたことが記されている。小林家もまた遠隔地の信者間ネットワークの核の1つとなっていたと言える。今後は、これらの成果に基づいて論文・史料集を発表していく予定である。
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