「危機的状況下におかれた人間は、それまで蓄積してきた自らの経験と知識に照らし合わせ、その危機をどのように知覚し、いかなる対応をとることで、新たな時代を迎え入れようとしたのか」――いまだに多くの課題が積み残されている日本開国史研究において、この普遍的な問いに一つの解を示すことが、本研究の目的である。 研究過程において、仙台藩儒・大槻磐渓が嘉永7年のペリー再来航時におこなった探索結果を記した『米夷紀事』(国立国会図書館所)、ペリー来航予告情報の受取をめぐる幕府の対応やオランダ別段風説書の記載内容などへ、自身の認識の書き込みをおこなった『嘉永五壬子年和蘭告密御請取始末』(宮城県図書館所)、アメリカの対日動向の画期について、当時の記録をまとめた『和米始末』(静嘉堂文庫)などの史料を確認することができた。また、福山藩家老・江木顎水や同藩儒・石川和助(関藤藤陰)による情報収集活動についても『金川遊記』(関西大学図書館)をあらたに得ることができた。 磐渓の情報収集活動については、『米夷紀事』記載事項からさらに詳細な活動状況を明らかにすることができた。また磐渓は、「開国派」としての評価が定着しているが、この通説に対して再評価を促す指摘をした。これについては、『嘉永五壬子年和蘭告密御請取始末』の書き込みなどからペリー第1回来航直後の嘉永6年7月時点で、アメリカとの通商を許すべきではないとしたことからも裏付けられた。さらに、磐渓がアメリカの対日政策に接し、意思決定に変化をもたらしたのが、安政2年の下田における日米和親条約批准以降であることも『和米始末』から明らかにすることができた。 史料的制約から江木や石川等、頼山陽門下の儒学者については、研究を深めることが困難であった。『雑綴』(広島県立歴史博物館)や『金海游記』などを手掛かりに研究の深化を図っていくことなどが新たな課題として残された。
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