円仁『入唐求法巡礼行記』に収められる文書のうち、長安滞在時期の文書を分析した。この時期の文書は、主には仏教交流に関する内容が多く収められている。内容的には大きく2つに分かれ、1つは会昌の廃仏以前の仏教交流時期、2つめは会昌の廃仏後から帰国に至る帰途準備の内容である。 1つめの文書群では、円仁が長安に到着し滞在が認められるまでの手続きや長安における各地の寺院を巡礼して、当地の僧侶と交流を深める内容に係る内容である。とくに前者では長安の仏教寺院を管轄する左街功徳使とのやりとりが記されており、外国僧侶に対する唐朝の扱いの一端を知ることができる。また後者では長安の資聖寺、青龍寺、興善寺などにおける巡礼の実態や寺院の習慣などが具体的に記されていた。 後半2つめの文書群は会昌の廃仏という仏教弾圧時期の文書であり、外国僧侶である円仁らも非常に厳しい扱いを受けたことが文書からもうかがうことができた。例えば、仏教教団に自らの履歴や芸業をすべて報告させられ、部屋内の状況も逐一報告しなければならなかったのである。その結果、円仁らは長安を離れて帰国する方針を選択し、通行証を取得して江南から出港地の山東へと向かったのである。 さらに、円仁らの文書とのちの宋代成尋の文書を比較し、大きな違いを明らかにした。1つは、身分の違いである。円仁は遣唐使という国家使節を離れ、ほぼ個人の自力で滞在と通交を申請し、文書を取得した。この点、成尋は当初は個人の身分であったが、のちには国家使節として扱われ、文書の内容も大きく違っている。2つめは、それに関わって、彼らの待遇も大きく異なり、円仁はあくまでも個人の巡礼者待遇であるが、成尋は日本使節の待遇を得た。これが唐宋文書の内容である。 併せて、これらの文書を読解する手段として、中国語の基本文献「漢語文字学史」を翻訳した。以上が、今年度及びこれまでの研究で明らかになった成果である。
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