本年度は最終年度として、清代中期から洋務運動期における公権力のあり方を台湾を事例に検討した。具体的には7月に台湾中部の鹿港、嘉義などを調査し、媽祖廟を初めとする廟宇に現れた公権力と社会の関係について調査した。その結果媽祖信仰には漢人移民が繁栄と庇護を求めた側面があると同時に、政府が建てた廟宇や扁額には反乱を鎮圧した清朝権力が公認を与え、外来政権である清朝公権力の正統性を誇示する側面があることが確認された。 次に嘉義では戦前の日本の教科書にも取り上げられた呉鳳伝説に関する調査を行った。呉鳳が原住民地区への進出を図る漢人移民と原住民の対立の犠牲になったこと、公権力はその死を検証することで、漢人の「内山」進出を黙認しただけでなく、日本統治時代だけでなく戦後も長く「滅私奉公」の規範意識を注入するイデオロギー装置として作用したことを確認した。こうした結果を踏まえ、太平天国以後の公権力のあり方について1885年の清仏戦争後に台湾巡撫となった淮軍出身の劉銘伝の近代化政策について考えて見ると、外国からの脅威を防ぐために原住民地区に対する全面的な開墾政策を進め、樟脳生産によって収益を上げようとした点が注目された。それは曽国藩や李鴻章が反乱弾圧後に行った社会改革と軌を一にするものであり、洋務運動がヨーロッパ近代の追求ではなく、儒教的理念を実現する方途として実施されたことが確認できた。言いかえると督撫重権は中央政府と地方長官との関係においては行使可能な権限の調整という特徴を持ち、外国勢力との対抗という点では開発事業の全面展開などに強い影響を与えたが、富裕なエリート層がリーダーシップを持って地域支配を強化したという点では清朝伝統社会との連続性が強く、それは20世紀以後の中国社会の特質に影響を与えたと考えられる。
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