本研究の目的は,清朝(1636~1912)前半期,すなわち18世紀の乾隆朝までを対象に,旗人の科挙応試(受験)に関する諸問題を検討することである。 清朝政権の支配層に該当する存在が,八旗に所属する旗人(満洲旗人・蒙古旗人・漢軍旗人)である。かれらは太祖ヌルハチ以来の父祖の功績により,世爵・世職およびそれにともなう俸禄の支給や,高官ポストへの任官面において優遇されていた。これは被支配層である一般の漢人らが,政権上層に参画するためには,科挙合格が必要であった事実と比較すると,旗人らの特権的側面を顕著に示すものである。しかし旗人の中には一般の漢人に交じって科挙に応試して官僚となる者も少なからず存在した。一体いかなる旗人が応試し,それがかれらの官途にどの程度影響していたのか,そして旗人の科挙応試が清朝政権のいかなる特徴を反映しているのかについては不明であった。 本研究により跡付けることができたのは,科挙に応試した旗人の出自は,貧しく零細な家柄の旗人から,有力氏族である権門の子弟まで多岐に亘っており,多種多様な出自の旗人が応試していたという事実であった。その中でも数代に亘って合格者を出している家系も確認でき,官途における単なる栄達の手段としてだけではなく,旗人社会において儒教的教養の体得(儒教化・士人化)が進行していた様子が窺える。 しかしそれ以外にも,科挙に合格した旗人らが翰林院において研鑽を積んでいる期間に宮廷内の有力な大臣家と婚姻関係を結んだ事例,また科挙に合格した旗人(あるいはかれらが所属するニル)が諸皇子の属下に配される事例が少なからず確認できるなど,八旗内部における旗人の勢力扶植の契機としても,清朝の科挙が機能していた可能性を指摘した。
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