1860年のサンフランシスコにおいて、公式の「人種」分類になっていなかったにもかかわらず、日本人や中国人への記載が統一されていた原因を、調査員のライフヒストリーと「家族」に注目して研究を進めた。センサス上での「家族」は通常の家族だけではなく、病院、学校、寄宿舎等を含んでいた。これは現在の「世帯」を意味していた。そこで調査員の側のライフヒストリーを検証したところ、サンフランシスコを含むカリフォルニア州の北部管轄のマーシャルとその家族全員がテネシー州出身であることが判明した。そしてこのマーシャルはほとんどのサンフランシスコの調査員を同郷者に依頼していた。よってマーシャルの家族を中心とした調査員の間で情報が細かく共有されていた可能性が高いと思われる。また1860年の人口センサスのみならず、死亡統計(モータリティスケジュール)をも対象にして検証した。その結果、1860年に咸臨丸の水夫が入院していた合衆国船員病院の記載が、他の入院患者とはきわめて異なるものであることが明らかになった。 日本人移民・移住史に関しては、環太平洋における移住についての包括的な把握を継続して試みた。日本側の外交史料館における査証史料やアメリカ議会議事録等の日米のデジタル化された史料の継続的な収集とその検証のほか、複数の新聞史料データベースを駆使して、センサスと環太平洋における人の移住・移動に関する報道の広範な収集と検証を継続した。加えて、人の送り出しの試みとそのネットワークについても史料収集と検証を継続して行った。さらに実際に1860年代に移動した人々は一部を除き、ほとんどの人々が無名で知られていないが、日本各地に細々と伝わる伝記や読み物を収集し、それらの断片的な記録とセンサスその他のアメリカ側の史料をリンケージする作業を行った。
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