研究課題/領域番号 |
18K01046
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研究機関 | 武蔵大学 |
研究代表者 |
平野 千果子 武蔵大学, 人文学部, 教授 (00319419)
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研究期間 (年度) |
2018-04-01 – 2022-03-31
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キーワード | 国民史 / マイノリティ / ディアスポラ / 歴史認識 / 黒人史 / 植民地史 / フランス史 / ジェンダー |
研究実績の概要 |
2020年度は2点の論文を刊行した。いずれも巨視的には従来の国民史の語りの再考につなげる試みである。1点目は「連鎖するディアスポラ――フランス領カリブ海からのまなざし」(『武蔵大学人文学会雑誌』第52巻第1-2号、2021年2月)で、前年度から継続していた研究である。ディアスポラは、その集団としての移動という性質から、国民国家の語りを相対化する可能性をもっている。本稿では、1946年にフランスの海外県となった旧奴隷植民地4地域のうち、カリブ海のマルティニックとグァドループを通る人びとの移動を素材とした。注目したのは1848年の黒人奴隷制廃止以降の人の流れである。アフリカやアジアからの新たな労働力の導入に続き、第三共和政期には、この地から末端の行政官として新しい植民地アフリカに旅立つ人びとの存在(「植民地ディアスポラ」)、そして第二次世界大戦後、今度は本国での労働力としてここから流出する人びとの存在があった。この地を通しては幾重にもディアスポラと呼べる人の動きが連鎖的に起きているのである。注意すべきは、これらの人びとが単一のアイデンティティをもっているのではない点である。彼らの存在は、フランス国民史を再考する手掛かりを与えてくれる。 2点目は「『世界のなかのフランス史』と植民地――「新しい市民」の視点から読む」(『思想』第1163号、2021年3月)である。2017年にフランスで刊行されたパトリック・ブシュロン編『世界のなかのフランス史』は、従来の国民史に場のなかった植民地にも目配りした、新しい方向性をもつ歴史書である。植民地に出自をもつマイノリティは、今日フランス市民であり、彼らを視野に入れた国民史が、フランスでもようやく形をとってきた。こうした試みに対する批判が何を契機としているのかは、歴史認識のありかを考えさせる。今後の議論を深める一助となるはずである。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
1: 当初の計画以上に進展している
理由
2020年度に向けては、3つの目標を立てていた。第1と第2の課題については論文として上梓したので、形の上ではおよそ計画通りである。ただ活字にする過程で、当初は意識していなかった論点も含めることができたと思う。とくに2点目の『世界のなかのフランス史』に関する論考では、ブシュロンの著作の勉強会で執筆のための報告をし議論を重ねるなかで、「新しい市民」という視角を打ち出す道筋を立てられた。さらに1980年代に刊行され話題を呼んだピエール・ノラ編の『記憶の場』との方法的問題についても、思考を深めることにつながった。 第3の課題である人種問題については現在も進行中である。この点に関しても2020年度には、より明確になってきた側面がいくつかある。人種差別のような現象は、歴史上いつの時代もどの地域でもみられたものだが、近代の西欧で普遍的概念が生み出され、それに合わせて制度が整えられることで、解消への道筋がつけられたと一般には考えられがちだろう。しかし現実を子細に見れば、近代社会の進展、すなわち資本主義社会の進展に合わせて、差別は深刻化してきた。黒人奴隷貿易や奴隷制が啓蒙の時代に最も盛んになったことは、人種の問題を考える際に見逃すことはできない点である。 同時に人種主義には、女性蔑視が内包されていることも忘れてはならない。これは権力をもつ者ともたざる者といった二分法的観点では、捉えきれない側面がさらに残されていることを示している。事実、奴隷解放後の旧奴隷植民地におけるジェンダーの問題は、これからさらに探究されるべき視角を提供するものである。人種主義を軸に歴史を通観することは、差別の構造が幾重にも重層的に織りなされている現実への気づきを与えてくれる。啓蒙の時代も含めて近代を再考する必要に迫られたのに加え、今後の国民史の語りや歴史認識の問題を再考する視点を、より明確に得ることができたと考えている。
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今後の研究の推進方策 |
本研究の最終年度となる2021年度には、全体のまとめに向けた作業にかかる予定である。それにあたって3つの点を考えている。まずこの研究期間を通して少しずつ進めてきた人種主義の歴史について、一定の区切りをつけることである。このテーマの考察をするにつれて、近代の問い返しの重要性が浮き彫りになってきた。それには啓蒙思想や、フランス史で言えば革命期に唱えられた普遍的とされる理念、加えてそこから派生する市民社会や民主主義といった論点が含まれる。これが日本の問題でもある点には注意が必要である。単に日本にも人種主義があるというレベルのことではない。たとえば戦後の民主化した社会において「優生保護法」のような法が成立した事実は、やはり近代の諸価値をめぐる再考を迫るものだろう。それにあたっては、何が差別を見えにくくしているのかという問いも、それぞれの時代、社会について問われることになるはずである。 2点目としては、これまでの研究で、フランスにおける黒人というマイノリティをいくつかの側面から考察し、国民史の書き換えや歴史認識の問題をある程度抽出し提示することができたと思うが、それらを基に近い将来、何らかの形で全体をまとめ収斂させる方向性を見出していきたいと考えている。 3点目に、その一つの視角としてのジェンダーをあげておく。上に記したように、2020年度の探究の過程で大きな論点として浮上したのがこの問題でもあった。近代が女性を解放したのではなく、むしろ近代という時代が女性に対する抑圧のヴェクトルを強化したことは、今日では合意事項だろう。言うなれば近代は、人種の問題にせよジェンダーの問題にせよ、解放とは異なるヴェクトルが働いた時代である。今後はこれらを重ねて議論する姿勢が重要になると思われる。多様な視点をもちより議論する場を作ることはその第一歩となろう。個人研究の場を発展させることも模索していきたい。
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次年度使用額が生じた理由 |
2020年度は新型コロナウィルスの蔓延で、海外出張はおろか、国内の出張もままならず、旅費として使う機会が皆無だった。そのため助成金の多くが未使用のまま残ることとなった。その分、コンピュータや書籍の購入で研究環境を整えることができたが、旅費に考えていた分が執行できなかったことは否めない。 2021年度に向けては、海外出張が可能な状況になれば、2020年度に実施できなかった分も含めて現地調査を積極的に行っていきたい。加えて勤務先では一年間の研究休暇中であることから、時間的には融通が利くので、通常時のように夏休みのような長い休暇期間に縛られることなく、状況を見定めながら現地調査の時期を探っていきたいと考えている。 また2021年度は本研究のまとめの時期となるので、それに向けた書籍の購入なども続け、入念に準備していく心づもりである。
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