本研究は、帝国日本が領有したアジアおよび南洋(東南アジアと南洋群島)におけるる植民地統治と南進政策について検証し、アジア・南洋の地域的統合の意図と南進政策が現地社会に与えた影響を明らかにすることを目的とする。本研究では、以下のことが明らかになった。 ・台湾については、主に台湾日日新聞等から各時代における南進政策の変容を分析した。台湾領有初期から「その地理的その他の特長を勘案し」帝国南方における基地として位置付けられた。当初は政策によって推進されたが、1930年ごろからは民間により経済的目的による進出が進展し、1940年以降は南方戦略の基地としての重要性が増大した。しかし実質的には、台湾からの移民や企業進出の増大には至らなかった。ただ台湾における糖業政策や技術が、パラオなど南洋における糖業開発に深く関与したことが指摘できる。 ・南洋群島は1919年に委任統治領となり、1930年代末に南進政策が国策となった後、南支南洋へ軍事的経済的進出を図り、パラオに南洋庁が置かれ、国策会社である南洋拓殖株式会社の本社が設置された。パラオではとくにリン鉱業や糖業が発展し多くの日本人が移住した。ただし、台湾からの移民は南洋群島全体を通じてきわめて少なかったことから、台湾は南洋進出の基地とされたが、台湾と南洋群島との直接的関係は希薄であり、台湾は南洋進出の経由地としての役割にとどまっていた。 ・日本は周辺アジア、南洋を包含し帝国を確立する過程で、理念としての「アジア主義」を掲げ、南進政策を推進した。台湾はその地政学的重要性が認識され、南進基地として位置付けられていたが、実際には中継点としての役割を担っていた。一方南洋は食糧・物資供給地として開発され、日本人が多く移民しがその産業に携わった。 ・朝鮮も計画では研究対象としていたが、時間的制約により実行できなかった。
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