本研究では、①戦間期、1920-30年代の政府・司法省主導の裁判官キャリアシステムの構築に伴って、日本とフランスそれぞれ裁判官の職権の独立の実態がどのようなものであったのか、そして、②戦後改革期に、そのような実態に対する総括がどのように行われたのか、あるいは、当該裁判官キャリアシステムに対する、司法権以外の多元的な機関による「法的統制」の可否ないしは有効性がどのように論議されたのか、その制度化はどの程度まで行われたのか、③①②を総括しつつ、そこにどのような日仏の差異と共通性があったのか、を順次検討するものである。 令和3年度については、これまで行ってきた①②の検討をふまえて、③の課題を引き続き総括するための検討を進めた。まず、日本の戦後改革期の司法省組織改革と憲法制定過程において、裁判官選任制度がどのように検討されていたのかについては、戦前的な司法省中心の集権的な人事構造を維持する議論が、法曹一元的英米制度によるべきだとする改革議論を対抗議論としつつ(こうした構想は、戦前以来の連続性を持ちつつ戦後司法制度改革期にも一定の対抗軸の意味を有する、この点について、本研究では、裁判官の職権の独立に関わる司法当局、実務裁判官、立法者、法曹界などからの言説を参照)、集権的人事制度を維持する制度的基盤を残すということに帰着したこと、そして、最終的な決着は、日本国憲法施行後最初の判事再任制度の実施時期の運用に委ねられることになったことを確認した。フランスについては、裁判官選任制度の集権性を是正するために司法官職高等評議会が設置されて以降、その運用が、戦後改革期以降に再評価され、1958年改革にさらに発展的に継承されていくことを確認した。
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