前年度に引き続き、率直に言って、コロナ禍の影響はとりわけ研究の公表に関して本研究においても避けることはできなかった。しかし、事実認定的な法的言明が認定者の動能的な(=非認知的な)心的状態を表出しており、表象主義 representationalism の下で信念がそのようなものとして描かれがちであるような、純粋に認知的な(すなわち、世界をそのまま表象しようとする、世界から心への適合方向のみを有する受動的な)心的状態を表出するものではない、という点についての理解が深められた。すなわち、事実認定的な言明が表出する「pということにして話を先に進めよう being for proceeding as if...」という心的態度がどのようなコミットメントを伴っているかについて、理解が深められた。「p ということにして話を先に進めよう」という主体は、以降の推論において、not p を主張しないというコミットメントを有し、以降の推論において p → q を受け入れた場合には q を主張するというコミットメントを有することになる。他方で、これらのコミットメントは、いわゆる推論主義 inferentialism が、p を主張するという行為に伴うものとして挙げているコミットメントそのものである。したがって、事実認定的な法的言明ではないような、通常の認知的主張については表象主義的な意味論が妥当なものとして成立する一方で、非認知的なコミットメントを伴う事実認定的な法的言明については推論主義的分析が適用可能である、ということができるようになる。これは、「pである」という事実認定的法的言明を「pは法的に正当である」という規範的様相に包まれたものとして分析してきたやり方を大きく離れ、法的言語を意味論レベルで通常の言明と異なった構造を有する特異なものとして分析するという可能性を示すものである。
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