憲法中の文化概念、有形文化資産の保存・活用と都市計画との連携に着目し、日本統治期においては、漢人社会の「文化」を法的に容認することと文明の表象としての近代都市や公衆衛生の理念に基づく都市計画との融合が相互適応的に進行した点、また民主化以後の台湾においては、移民社会台湾の民族「文化」の歴史と技術的な進展に伴う都市「文明」の歴史の融合・混淆が、有形文化財(資産)の価値の象徴として捉えられるようになった点を検証した。 中華民国期の台湾においては、共同体の構成員の多元かつ多様な属性を統合するものとして、中国から継承された伝統中国の文化概念が当初用いられていたが、新たな共同体の概念として「民族」に代わる「族群」(エスニックグループ)概念が創出され、90年代後半には、各族群の分断要素を克服するために個人の内包する歴史が触媒となり、さらなる多元化へと向かった点、さらに文化基本法に至っては、「すべての」族群(文化基本法第2条第1項)へと拡張され、さらに大きな物語を紡ぐ装置としての「文化」の枠組みが用意された点、かつての文化・文明の概念を歴史とともに更新しながら、個々の人権にもつながる性的指向をも包摂した多層的な文化権に拡張した点を指摘した。 これらの変容を促した背景には、日本統治期において台湾の「自治行政の慣習」と「民法にも匹敵する社会の自治機能」(後藤新平)が着目されたように、戦後においても「政府」と「政府の外側の市民活動」との間の絶妙な不均衡(政府より慈善団体やソーシャルセクターへの信頼度が高い)が逆説的に政府と市民の相互作用による協働作業への信頼度を高める基盤となり、政府の無謬性を原則としない自律的な台湾社会の風土につながっていることが要因としてあげられる点を補完的に提示した。
|