本研究課題の最大の研究成果として、『ある軍法務官の生涯 堀木常助陸軍法務官の秋霜烈日記・伊勢、旭川、善通寺、そして満州』(風媒社、2023)なる自著を刊行することができた。 本書の章立ては次のとおりである。第1章 軍法会議と法務官 / 第2章 伊勢の名門・堀木家の六男として生まれて / 第3章 旭川第七師団勤務の日々─一九一六年の日記より / 第4章 善通寺第十一師団勤務から朝鮮軍勤務まで / 第5章 満州勤務の日々(Ⅰ)─渡満・軍事郵便・恤兵 / 第6章 満州勤務の日々(Ⅱ)─アヘン・満州航空・国葬 / 第7章 満州勤務の日々(Ⅲ)─満洲医大・コレラ蔓延・国防婦人会 / 第8章 戦病死と四万円寄付 / 終章 法務官制度の変質 作成に当たって主に依拠した一次資料は、堀木常助が遺していた3冊の日記である。堀木の曾孫より私に提供された。その細かいくずし字を解読し記載事項の文脈を理解する作業をした。第2章から第7章まではこれらの結果を時系列に基づき文章化していった。本研究費を用いて現地にも足を運んだ。堀木の生地であり立派な墓が建立されている伊勢、堀木の勤務地であった旭川と善通寺である。 第1章は本書の前提として制度的な説明を行った。1922年の陸海軍軍法会議法の制定によって、近代的な軍法会議が整備され、それを構成する5人の裁判官にただ1人の文官として法務官が加わることになった。終章はそれと対をなしている。アジア太平洋戦争開戦翌年の1942年に軍法会議法は改正され、法務官の身分は軍人に変わった。軍法会議は「統帥ノ要求」に従うラバースタンプ装置へと変質したのである。 第8章は堀木の満州での殉職を扱っている。堀木が奉職していた旭川第七師団は1934年2月に旭川に帰還することになっていた。その直前に堀木は病死する。 ともあれ、「戦前の軍法務研究の発展に寄与したい」との研究目的は、自著刊行によって達成しえたと考える。
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