第一に、在日米軍基地の運用や防衛分担金の減額をめぐる日米協議を通じてさまざまな合意が形成され、慣行が定着するなかで、「基地」は日米の安全保障関係、さらに日本政治、社会に組み込まれたことが明らかになった。第二に、米軍基地が地域の平和と安定のために果たしている役割について、日米は、少なくとも1950年代半ばごろまでは、米国と理解を共有していなかったことである。「地域」をめぐる認識ギャップは、地域的集団安全保障枠組みの形成が困難だった原因を示唆している。第三に、講和後の吉田内閣、および鳩山内閣から岸内閣初期にかけての時期が、1950年代の日米の安全保障関係のなかでもった意味を明らかにしたことである。
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