研究実績の概要 |
戦間期の日本において、県営の生産検査によって、県内で生産された米穀のほぼすべてが「強制」的に検査され、それによって、米の品質の向上が図られたことが指摘されている(持田1970, 玉2013, 有本2017)。 しかし、米穀検査制度必ずしも、各県で、順調に推移したわけではないことは、これまで十分に指摘されてこなかった。米穀検査は、一定の費用と人員を動員して行われたが、その費用対効果は、各県によって異なっていたのである。例えば、富山県では、1905年という早い時期から県営検査が行われたが、東京および大阪市場での格付けをあげることができなかった。同県の大阪市場に格付けは、基準となる摂津米との差を詰められないまま1922年に至っている。このため、1922年には、県営検査は強制ではなくなっている。米穀検査の意義を明らかにするためには、こうした判断が行われた背景で、検査担当者及び農民や県政関係者による議論があったのかを分析しなけれならない。さらには、そうした判断を行う根拠として、東京・大阪といった大都市市場に代わる北海道、樺太などの市場拡大といった市場環境の変化、および、米穀検査の実施体制とそれに要した費用の詳細な分析も必要である。 そのために、富山県立図書館で以下の資料を調査し、データベースを作成する作業を行った。富山県米穀検査報告 明治37, 40, 41, 43年度、大正元, 2, 3, 4, 5, 6年度、米穀検査成績報告(富山県) 大正7, 8, 9, 10年度、穀物検査報告(富山県)昭和6,9,10,11, 13,14年度
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