近年、認知症ケアをめぐる潮流は、認知症当事者本人の意思を尊重し、本人の意思に配慮したケアを行っていく「パーソンセンタードケア」として新たな動きをみせている。しかしながら、この本人中心アプローチである「パーソンセンタードケア」では、本人がさまざまに困難な状況や事態に立たされるであろう三つの局面について未だ十分には検討されていない。そこで本研究では、本人における困難な三つの局面について検討する。その三つとは、①認知症の進行をめぐる本人自身による「受容」、②本人が意思を表出することの困難、③本人の意に添う形での看取り、である。この三つの困難な局面について、本人はじめその家族や介護職に聞き取りを行うことで、最期までの生活を本人の意に沿うケア実践とはどういうものであるのか、検討しようとしてみた。 ただし、本研究をおこなっている期間中において、ある脚本家が「わたしが認知症になったり介護が必要になったら安楽死を」という宣言めいた文章を発表した。その発表後、その意見に賛同する人が多くあらわれた。その意見の中には、「『認知症』とされる本人には意思がない」という偏見が根強くみられていた。そこで、「『認知症』とされる本人には意思がない」という偏見が強まることや、本人中心アプローチのケアのあり方や本人中心の「看取り」のあり方が変わってしまうことへの危惧から、「認知症」とされた人たちに対する「安楽死」を求める思潮が強まることに対する批判的な検討をおこなった。 さらに、本研究の実施中に日本政府が「認知症予防」を重視する「認知症」対策を出した。この「予防重視の方針」では、「認知症」とされた人が「予防に失敗した落伍者」とみなされ、当事者の「スティグマ」が増してしまうことになりかねないと、本研究では批判的な検討を加えることにした。
|