最終年度の研究においては、多分に産業報国会との連続とのなかで出立した日産従業員組合(日産従組)が戦闘的な左派組合へと転換していくプロセスに取り組んだ。とりわけ、焦点をあてたのは、1947年4月に結成された全自動労組準備会(全自準)の結成プロセスと、結成後の運動方針の展開である。この全自準は日産従組やトヨタ労組が中心となって中立系の産業別組合として設立された。全自準の結成過程において、日産従組は加盟していた産別会議系の全日本機器を脱退するが、これは後者のゼネスト方針や上意下達的な組織運営に対する違和感、および政労使で産業復興を進めていくべきだとする日産従組の新たな産業別組合観の形成がその理由としてあげられよう。こうした方針を全自準も引継ぎ、経営者側と自動車産業復興会議を設立するとともに、個別企業の単位労組に対しては生産復興運動を進める指令を発出し、労使協調的な生産復興、産業復興に取り組んでいた。そして、総同盟と非常に親和的な関係にあった。 しかし、同年7月の片山政権による業種別平均賃金の設定や、自動車産業復興会議の行き詰まりから、次第に賃上げ闘争が主要な課題となっていった。準備会執行部は、12月の拡大中央委員会では生産復興は賃上げなどの諸要求実現の手段としてとりあげるとする方針案を提案する。しかし、生産復興闘争こそが現下の最大の課題であるとする修正動議が出され承認される。これは産別会議に接近していた傘下組合により、同年11月の産別定期大会の運動方針である人民闘争的な生産復興闘争の方針が密輸入されたのであるが、他方で生産復興闘争という言葉がもつダブル・ミーニングにより、従来の生産復興運動の方針も維持され、1947年末の段階ではいまだ戦闘的左派組合へと転じていたわけではないことが明らかになった。
|