近現代都市における貧困の重層化プロセスと社会政策に関して、戦前期における六大都市の連携と社会事業の展開について比較研究を行った。昭和2年7月、第一回六大都市社会事業協議会が東京で開催された。六大都市とは、東京市、大阪市、京都市、神戸市、名古屋市、横浜市である。この協議会は東京市社会局が他五都市の社会事業担当部署によびかけて開催したものである。六大都市が連携して、課題となっている社会問題を共有し、国に対して効果的な社会政策立案と予算措置を要請し、社会事業の推進をはかることを目的としていた。その後、協議会は毎年各都市の持ち回りで開催されるようになり、昭和16年には第14回協議会が行われ、昭和戦前期に協議会が継続的に開催されていたことは都市政策史上、注目すべき動きの一つである。六大都市の連携が都市社会政策の進展に与えたインパクトについて社会事業の側面から考察した。 六大都市の連携が始まる契機は大正7年(1918)の米騒動である。東京市、大阪市、京都市は明治21年公布の市制町村制で特例が適用されていた。米騒動以前に大阪市、京都市は東京市区改正条例の準用指定を受ける法律案制定をめざし、これに神戸市、名古屋市、横浜市が加わり請願運動を行った。米騒動の直後、9月に五都市の市区改正条例準用が決まり、都市計画事業の実施が可能になった。大正11年3月に「六大都市」指定の法案が公布され、行政事務の特例対象とする制度的枠組が整った。翌年の関東大震災で被災者救援を通して、社会事業の実動機関としての存在意義と行政力を高めた東京市社会局は、社会事業推進の基盤を固めるため他都市との連携を図った。大都市に対応した政策実現のプラットフォームを構築し、社会調査のノウハウを共有した。協議会は乳幼児死亡率対策に連携して取り組む体制、方面委員制度、失業対策の立案に影響を与えた。
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