「二・四事件」は、1933年の,長野県の,諏訪・上伊那地方の,さらには一つの拠点の小学校の教育問題というだけにはとどまらない,戦時下に向かう日本教育史を左右する重大な出来事であった。「信州教育」と呼ばれた教育県で起こった事件は、90年後の今日までも教育界に影響を及ぼしている。教師と児童,学校と地域,県と教育会と中央とを切り結ぶ事件であり、時代の転換を画する「歴史的契機」であった。 最終年度は、新資料の『長野県プロレタ教育資料 昭和八年』に含まれる「長野県ニ於イテ左翼運動ニ関与セル小学校教員ノ手記」を翻刻し、その分析を通じて「二・四事件」の全体像を捉えなおす試みを継続してきた。「手記」は、検挙された教師たちの教育運動への多様なそして軽微な認識を明らかにし、「二・四事件」を改めて捉えなおしていくうえでの有効な研究素材となった。教育労働運動にほとんど無関心であった教師が次々に検挙されていく実態は、思想統制を強化していく文部省や内務省の政策動向にあって、天皇制への一大「反逆事件」として構築されていくことに他ならなかった。 その実態の解明はまた、治安維持法の目的遂行罪を批判的に検証する機会でもあった。どんな理由であれ教師が警察に検挙されるという事実の持つ意味は、日常生活を営む村民にとってはすこぶる重くそれゆえに影響力も半端ではない地域体験であった。マスコミを通じての全国的な波及効果の大きさゆえに、信濃教育会は事態収拾に向けて猛省と体制への恭順の意を表しつつ、従来の教育に根本的な刷新を試みていった。それが満蒙開拓青少年義勇軍の大量送出へと繋がっていく。 最終年度に当たり、研究成果報告書として『歴史的転機としての「二・四事件」の総合的研究』(323頁)を刊行した。「手記」資料の復刻と研究ノートとを内容としており、特に資料の復刻は学会の共有財産となるのではと期待している。
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