八田與一と八田が1920年(大正10年)から10年かけて完成した嘉南水利システムは、台湾と日本において常に賞賛される存在であり続けているが、必ずしも十分解明されていない事実が多くある。 水利システムが台湾南部の住民に大きな利益を与えたことは間違いない事実である。毎年八田の命日である5月8日に烏山頭ダムにおいて祈念祭が開かれている。八田に対する尊敬の念が台湾南部で衰えたことはなく、台湾(中華民国)において日本の植民地統治を憎む宣伝が行われた、戦後の一時期も変わらなかった。それを記載した文献を筆者は見つけ出すことができた。また、水利システムを運営している台湾の組織の職員も八田に対する尊敬の念は強く、八田の妻外代樹に対しても同様である。外代樹については、夫に献身的に奉仕する妻という関係が評価されている。これらは職員にアンケートを行ってわかった。 八田のみが称揚され、水利システムに貢献したそれ以外の人が言及されない現状は問題である。例えば建設期間中、トップの監理者であった枝徳二は、組織をまとめ建設資金を確保するなど大きな働きをしているが、現在ほとんど知られていない。彼の業績に関する史料を見つけることが出来た。台湾総督府が工事の調査を行うためにアメリカから招聘した技術者ジャスチンをめぐっては、ダム権威者の正しくない主張を八田が退けたという理解がされることがあるが、正しくない。ジャスチンは権威者ではないが、彼の主張は十分根拠がある。八田の設計が維持され、ダムが無事建設されたのは、あくまで結果論であった。 嘉南水利システム建設の功績で、八田與一は台湾における技術者の代表的存在になった。日中戦争や太平洋戦争に向かう時局の中で、八田は時に軍部や侵略に批判的になることもあったが、技術者として戦争協力、国策への支持を主張し続け台湾の戦時体制に貢献したことも、諸文献から明らかにすることができた。
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