本研究では、『正保絵図』の分析により近世城下町は規模(石高)5万石以下が半数近くを占め、石高が小さい城下町は、武家地や町人地の面積と石高の相関がない点を確認した。続いて地方における小規模城下町の事例として、まず挙母の町人地の17世紀後半の町並みを史料から復元し、中核部が板葺きであるが以外の大部分は萱葺きであるという実態を明らかにした。また江戸後期の久々利では、武家地と百姓地が混在することを明らかにした。さらに町家の軒高が上昇するのは明治後期であり、町並の現状から遡及的に近世を理解する上では、このような時代的な変化、さらには地域的な差異にも注意しなければならない点を指摘した。
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