本研究では,古代ギリシアの運動競技におけるその存在形態とそこにみられる運動理念,ならびに人間観を原理的に考察することで,スポーツの存在様態を問い直し,そこに潜む教育的意味の契機を得ることを目的とした。その成果は以下のようにまとめることができる。古代ギリシアの運動競技は,社交を旨とした場において遊びとしての性格を有し,「競い合い」と「互いの尊重」という矛盾した状況を克服してきた。さらにその背景には,自由でありながら平等が保証されている様態を示すイソノミアという原理があり,そこには寛容の精神が結びついていることが推断された。こうした原理に支えられて,誰をも排除しない,否元々排除するような状況の生まれない場であるからこそ互いが共生して暮らしているという状況が保たれていた。そうした状況下において,運動競技は野蛮な方向に向かい,暴力や不正にまみれた活動に汚染される度合いを低く維持することができた。 スポーツは,競争の結果にこだわればこだわるほど,ルールを尊重するにせよ野蛮な方向に向かい,暴力や不正にまみれた活動となる。その一方で遊びの自由さ奔放さに流されれば流されるほど,一方的な,偏重した愉快,滑稽的なうわべだけの楽しさ,おかしさが助長されやはり品性を失い,結果つまらないものへと変質してしまう。何れにしてもそこにはスポーツの世界に浸りその中で人間が円熟する様はない。つまり,教育的な事象としてのスポーツが立ち現われることはない。自由でありながら平等が保証されているスポーツの競争といった存在様態は,寛容の精神によって支えられる。そして,それが遊び心の根底に位置づいている限りにおいて,スポーツがその文化的可能性を拓き,個人の生が躍動し社会的な安寧への通路となる。スポーツの教育的可能性は,そこに発露を見出すと考えられる。
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