スペインの権威主義的なフランコ体制下(1939年-1975年)では、バスク語使用に対する諸々の抑圧措置が講じられたが、体制後期には文化活動の一環としてバスク語教育がある程度容認され、なかには国外のディアスポラ社会との間でバスク語通信教育講座を開講する民間企業や個人も現れた。そこでは、文法理論重視ではないコミュニカティヴ・アプローチの採用や視聴覚教材の導入など、当時としては最新の言語教育の理論と実践が試みられたものの、この経験はその後のバスク語復権運動に必ずしも活かされなかった。その原因の1つは、今日バスク社会の公共空間で普及しているバスク語正書法の策定をめぐる見解の相違にあったと考えられる。
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