研究課題/領域番号 |
18K12281
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研究機関 | 新潟大学 |
研究代表者 |
中本 真人 新潟大学, 人文社会科学系, 准教授 (30734678)
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研究期間 (年度) |
2018-04-01 – 2022-03-31
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キーワード | 神楽歌 / 内侍所御神楽 / 内侍所 / 秘曲 / 南北朝時代 / 北朝 / 堀河天皇 / 後光厳天皇 |
研究実績の概要 |
本年度は、平成30年度中世文学会秋季大会において「神楽歌の秘曲「宮人」をめぐって」と題する研究発表を行った。本発表では、鎌倉期以降に秘曲として重んじられた神楽歌「宮人」について、多資忠から堀河天皇へ、さらに資忠の死後は、堀河天皇が遺児近方に「宮人」を伝授した事実を明らかにした。その後は、近方系である多氏庶流に伝えられるようになり、後白河院政期には近方の三男の好方が独占した。そのため「宮人」は秘密性を高めるようになり、鎌倉初期には特別な秘曲としての地位を確立させた。公家社会が大きく動揺する時代にあって、好方が「宮人」の独奏にこだわった結果、「宮人」は秘曲の中でも別格とされるようになった。中世の公家社会、武家社会では、「宮人」は特別な威力を有する秘曲と信じられるようになり、特別な祈願の御神楽で奏されたほか、種々の音楽説話を生み出す源ともなったことを実証した。なお、本発表は『中世文学』64号に掲載される予定である。 さらに「北朝の内侍所御神楽―後光厳朝を中心に―」(『人文科学研究』143号)では、正平の一統を境として大きく状況の変わった内侍所御神楽について論じた。神鏡の奉仕儀礼として行われた光厳院政期に対して、後光厳朝以降は神鏡を喪失した状態での儀礼を余儀なくされたからである。また後光厳期の不安定さは、内侍所御神楽の経済基盤にも影響し、特に召人の御訪の料足の欠如という形であらわれた。その一方で、御神楽自体は「臨時恒例御神楽」という略儀ではあったが、ほぼ毎年行われている。さらに秋季御神楽の再興も試みられるなど、神鏡の存した時期と同様の行事が続けられたのである。従来は、室町殿の力によって、内侍所御神楽の再興も進んだとみられてきたが、長く北朝が内侍所御神楽の継続に取り組んでいた事実も明らかにできた。 以上のように、本年度は充分な研究実績をあげることができた。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
1: 当初の計画以上に進展している
理由
本研究課題の研究のみならず、院政期の御神楽についても成果をあげることができた。広く古記録を整理することにより、特定の時代に偏らない視点を獲得することができている。
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今後の研究の推進方策 |
観応2年(1351)12月、足利尊氏は南朝に降伏し、三種の神器を南朝に引き渡した。さらに翌年3月、京に侵入した南朝は、光厳・光明・崇光の三人の院、および前東宮の直仁親王を拉致している。同年8月17日、京を奪還した義詮は、光厳院の第二皇子である弥仁王を擁立して後光厳天皇を践祚させ、北朝を再興させた。 その後の北朝は、後光厳・後円融・後小松の3代約40年に渡って三種の神器を保持しなかった。その一方で、神鏡の奉仕儀礼であった内侍所御神楽は、ほぼ毎年途絶えることなく行われている。この時期に中絶した朝儀は少なくなかったが、なぜ内侍所御神楽は継続されたのだろうか。本節では、神鏡不在という現実を抱えつつも、その奉仕儀礼である内侍所御神楽の継続された背景について明らかにしたい。
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