アメリカ児童・思春期文学において、2010年代以降も強制収容物語は出版されている。キミ・カニンガム・グラントやトレイシー・チー等は二世の祖父母の収容体験を現在の視点から描き、キク・ヒューやジョージ・タケイはグラフィック・ノベルの形式を用いている。日系ではない作家による作品もある。これらの作品の中から、ペットの犬をプロットの中心に据えた2つの強制収容物語、カービイ・ラーソンの『ダッシュ(Dash)』(2014)とロイス・セパバーンの『マンザナの風にのせて((Paper Wishes)』(2016)を、スチュアート・H・D・チンの多文化主義児童文学のオーセンティシティ基準を援用して分析した。チンの基準では、社会における権力構造/力関係が作品内で問題とされているかが重要となる。なぜ児童文学において強制収容がテーマであり続けるのかという問いを、日系ではないこの二人の作家の作品を通じて、アメリカ社会におけるエスニック・グループ/人種的マイノリティの問題との関連で検証・考察を試みた。 ラーソンの作品は、強制収容の歴史と日系人の体験を描いているものの、強制収容を日系人に強いたアメリカ社会の人種間のヒエラルキーをそれほど問題化していない。一方、セパバーンはペット犬との強制的な別れの場面から収容所を出て行く結末まで一貫して強制収容が日系少女に与えた暴力とその影響を描き、強制収容を批判するだけではなく、その根底にあるアメリカ社会の権力構造に異議申し立てをしている。セパバーンの犬との別れによる失声という傷を負った少女の物語は、親と引き離されて隔離された移民の子供や「チャイナウイルス」と呼ばれて暴力的扱いを受けるアジア系の人々の苦しみへの共感につながるものである。セパバーンは収容物語を今日的なマイノリティ排除の問題と関連づけて描いているのであり、民主的国家建設の理念と社会状況の矛盾を問うている。
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