最終年度は、鎌倉後期の公武権力と高野山との関係について、検討を加えた。まず、鎌倉幕府については、正安2年(1300)12月の「金剛三昧院供養表白」(『金剛三昧院文書』)に注目し、得宗専制期に入ってもなお、金剛三昧院が将軍権力に直結する性格を備えた寺院であったことを推測した。また、公家政権については、元応2年(1320)4月の「大塔供養記録」(『重要文化財 西南院文書』第9巻)に注目し、後宇多院による密教興隆の一環として大塔の再建事業が進んだこと、供養はその締めくくりとなる法会で、真光院禅助(後宇多の師で側近僧)が導師をつとめたことを明らかにした。 次に、研究期間全体を通じて実施した研究の成果を概括すると、(1)密教聖教を用いた鎌倉後期の政治過程の解明、(2)中世前期の密教聖教・古文書の調査・翻刻、以上の2つに大別できる。 (1)については、野口実・長村祥知両氏との共著『京都の中世史』第3巻 公武政権の競合と協調(吉川弘文館、2022年)において、従来知られていなかった修法・伝法灌頂の記録類、血脈類などを用いて、両統迭立期の政局を叙述するとともに、後宇多院・後醍醐天皇の政治的関係についても新知見を示した。また、後醍醐天皇に討幕を諌言した「吉田定房奏状」の成立背景に関する論文を執筆し、密教聖教にもとづいて検討を加えることで、後醍醐を傅育した重臣吉田定房の政治的位置を鮮明にした。 (2)については、『別尊要記』第四帖、『重要文化財 西南院文書』第1巻~第6巻、『保寿院流血脈私』といった、高野山に伝来した密教聖教・古文書類の調査・翻刻に取り組んだ。とくに、『保寿院流血脈私』の翻刻と考察によって、高野山一心院において継承された保寿院流金玉方高野伝という法流の実態が浮き彫りとなり、鎌倉後期から南北朝期の公武権力と高野山との関係を考える上でも、新たな論点が提示された意義は大きい。
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