本研究の目的は、近代中国の漢語を話すムスリム(中華人民共和国のイスラーム系少数民族、回族にほぼ相当)の起源説話が、彼らのアイデンティティ形成過程、及び中国共産党の民族政策において果たした役割を明らかにすることである。漢語を日常的に話し容貌も漢人に相似しているため、漢語を話すムスリムは歴代政権によって宗教集団と見なされてきた。しかし、20世紀前半のムスリム知識人は、7世紀中葉に預言者ムハンマドが唐朝に派遣した3人のアラブ人ムスリムの末裔であるという民間伝承を根拠に、漢人とは異なる独自のアイデンティティを強調した。この起源説話に注目してムスリムを単一の「民族」と認定し自治権を与えた、1940年代の中国共産党の民族政策は、現代中国の民族政策の基礎を作ったとされる。そこで、本研究は、ムスリムの起源説話の宗教的・文化的・政治的役割を解明し、近現代中国の民族・宗教問題の実態や民族政策の展開を再検討することを目指した。 最終年度は、新型コロナウイルスの感染拡大により、当初予定していた海外での資料調査やインタビュー調査を実施することができず、回民の起源説話が民族政策に与えた直接的影響について十分な考察を行うことができなかった。しかし、近代中国領中央アジア(現在の新疆、または東トルキスタン)のテュルク系ムスリムや、ロシア領中央アジアに移住した回民によって書かれたチャガタイ語の歴史書に、回民の起源説話が登場すること、それらが彼らの歴史認識や民族・宗教・国家観に影響を及ぼしてきたことを明らかにすることができた。
|