江戸期の日本において、数学研究としての和算のほかに、数学道場とも言われる数学学習環境が、日本全体に広く行きわたっていたことが知られている。 そうした状況の背景として、各地の庄屋周辺の人々に、年貢米の取り立てなどの業務のため、かなり細かい計算が必要とされていたという社会的要因があったことが、現地取材により明らかとなった。しかもそれらの人々には、ある程度の数学的素養をもつのは当然との文化的認識が広がっていたこともわかった。 また、数学学習においては単元ごとの免許が授与される一方、自作の問題を提示し合う習慣が定着しており、その両方が日本全体の数学熱を高めるのに大いに寄与していたことが示唆された。
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