九州の戦国大名大友氏に関しては、この10年間で考古学的アプローチによる研究成果の蓄積が著しく進歩している。中世400年間にわたり府内(大分市)を本拠に豊後を統治した大友氏の大名館跡や、大名蔵跡、周辺に5000軒あったと記録される町屋跡の総合的発掘が現在も継続されており、14~16世紀の国産土師器や輸入陶磁器、キリスト教関連遺物などが続々と出土している。 特筆されるのは、中国や朝鮮半島、琉球、東南アジア諸国からの陶磁器の出土量の多さと多様さである。九州は、日本列島の端に位置する小島であるが、国境のない中世においては、日本列島の国家秩序に位置づけられるとともに、中国浙江省を中核とする環シナ海域世界の国際秩序の一角を占めていた。 中国の『明世宗実録』によると、嘉靖36(1557)年に大友義鎮は使僧ら40余人を明へ派遣し、対明貿易の公許を申請したことがわかる。記録には「以十月初、至舟山之岑港泊焉」とあり、彼らの「巨舟」が10月初めに浙江省舟山の岑港(舟山島西部の港)に着岸した事実が判明する。大友氏の「巨舟」は翌月まで岑港に停泊して貿易許可を待ったが、折しも倭寇王直と明官軍の軍事騒動に巻き込まれ、岑港の海底に沈没してしまった。 これら文献史料が示す歴史的事実を念頭に、本研究の目的は、(1)16世紀の舟山岑港の地理的位置を現地比定すること、そして、(2)1557年に岑港に沈没した大友宗麟の貿易船の遺物を捜索し、その引き揚げの可能性を探ること、また、(3)船を失った大友氏の遣使一行が新たな船を建造した「柯梅」の位置を現在地で確定させること、の3点に置く。 16世紀のいわゆる世界史における大航海時代は、従来、日本史の分野においては、ヨーロッパ諸国がアジア及び日本に到着し日本国内で西洋の文化や技術が花開いたとする、受け身の歴史として認識されがちである。しかしながら、同時期の西国大名は、日本という国の枠を越えた極めて能動的なアジア外交を展開していたのであり、本研究でその能動的な歴史の実態の一端を明らかにし、世界史的レベルでの日本人の活動の具体的様相を歴史的に明証することを目標にかかげる。
|