馬衡は、1922年2月(40歳)には北京大学国学門に考古学研究室が設けられ、主任となった。羅振玉などの古代文字研究者を招聘することにより、北京大学での古代文字研究が一気に加速する。後述の『甲骨刻辞』には、羅振玉が編集した著作の番号が残されることが多いが、馬衡と羅振玉にはこの時点から接点があった。 馬衡が故宮と関わりを持つようになったのは、1924年11月(43歳)のことである。当時の内閣が「協理清室前後委員会」を組織させ、皇室の公財・私財の一切を管理させた。一方の唐蘭は、1923年に無錫国学専修館を卒業し、王国維の弟子となって、甲骨・金文などの古文字を研究するようになった。 馬衡が甲骨文字を収集できるようになったのは、北京大学に勤務してからの時期である。編集は、北京大学に考古学研究室が設けられた1922年以降、馬衡が北京大学を辞職するまでの1932年までの10年ほどの可能性が高い。後世、1922年までは甲骨文研究は初期の段階にあると指摘される。『甲骨刻辞』については、(1)原骨の収蔵場所は、北京大学にあると思われる。(2)作製時期について、『甲骨文合集』による分類では、I期とV期のものが多数を占める。(3)拓本の所蔵者について、羅振玉・商承祚・社会科学院歴史研究所・南京師範学院の収蔵品が目立っている。北京大学で収集された甲骨片が、北京大学に関連のある古代文字学者によって先を争うように公にされていたことが想像できる。 既存の著録と比較した結果、141件が集録されていることが分かったが、残り半数は著録に記録されておらず、新資料と予想される。
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