研究概要 |
3年間の研究の最終年度となる平成21年度は,我が国の体育教育実践において「書くこと」や「認識」を重視した最初期の人物であった佐々木賢太郎が,「子どもの認識」をいかに重視し,いかにその実践を変化させてきたのかを探ろうとした。1955年までの佐々木の実践の到達点は,「書かせて,みんなで批評し,再度書かせる」という綴方の方法を取り入れてホッケーのスティックを作る実践や,様々なボールを持ち寄って実際に打つことによって確かめながら体のためになるボールを選ぶという科学の分析-総合を取り入れた実践などに見られた。とはいえ,これらは技術指導や身体の使い方を中心としない体育実践であった。それに対して,戦後初の体育科教育実践論争といわれる佐々木一瀬畑論争(1960年-1961年)の端緒となる1960年の「ドリブル学習」という報告では,バスケットボールのドリブルという技術の学習において,「発見したものを照合し,みんなでよい方法を確認する」という方法がとられていた。 本年度は,「発見-照合-確認-総合」という子どもの認識の節がいかに導き出されたのか,そして3年間の研究のまとめを行うことを目的とした。その結果,認識の節が導き出されるまでには,(1)1952年に紀南作文教育研究会に参加し,生活綴方の方法を身につけるとともに,技術指導を中心としない実践に切り替えたこと。(2)体育実践の目的を「生命を守る」ことにおいたこと。(3)そのため,体育授業という枠を飛び越えて,生命を守ろうとしない社会の矛盾に気づかせる必要があったこと,(4)分析-総合という科学の方法に出会ったこと,(5)紀南作文教育研究会において生活指導と教科指導の統一が目指されたこと(これには1958年改訂学習指導要領の影響が強くあった)。(6)勤務評定の実施に対抗して,新たな実践研究の理論の構築の必要があったこと,などを理由としてあげた。 佐々木は子どもに考える力をつけるために書かせることや認識の指導をしていたというのがこれまでの通説であったが,それに加えて,体育実践に科学の方法(分析-総合)を位置づけ,集団で認識を高めるという方法を取り入れた端緒となったことが明らかになった。それは同時に,「グループ学習」という当時はやりの学習形態への批判も込められていた。
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