化学感覚は動物が餌やパートナー、あるいは敵の存在を察知するために非常に重要な感覚である。その進化的起源は古く、線虫C.エレガンスにもさまざまな物質に応答し得る緻密な機構が備わっている。神経系の機能解明に利点の多い線虫を用いて、化学感覚とそれによって引き起こされる応答行動の仕組みを分子レベルで明らかにすることを目的として研究を進めた。 線虫は低濃度の塩化ナトリウムを感じると、通常、濃度が高いほうへ進む。この化学走性には可塑性が見られ、塩化ナトリウムをむしろ忌避するようになる現象も報告されている。塩学習(佐伯ら、2001)や味覚順応(ジャンセンら、2002)がその例であり、いずれも、一定時間餌を与えずに塩化ナトリウムを経験させると塩化ナトリウムへの走性が低下する特徴をもつ。 我々は今回、餌が十分にあり塩濃度が低い環境を経験させた場合にも、その直後の塩化ナトリウムへの走性が著しく低下することを見出した(低塩条件付け)。走性の低下は、低塩濃度を数時間経験させると観察され、可逆的である。また、低塩条件づけの後、餌も塩も与えずに一定時間おくと走性が回復することから、それは一過的に走性が抑制された状態であると推測される。1ところで、我々を含む複数の研究グループにより、塩学習や味覚順応に必要な遺伝子パスウェイがいくつか明らかにされている。それらに欠損をもつ変異体を用いて低塩条件付けへの影響を観察した。その結果、低塩条件付けには、神経細胞の小胞分泌に関与するGo/Gq経路が関わることを見出した。また、低塩条件付けによる化学走性の低下は、塩学習や味覚順応とは少なくとも一部異なった機構によることが示唆された。さらに、特定の神経細胞の発生・分化が異常になる変異体を用いた実験では、意外なことに、一部の嗅覚神経の関与を示唆する結果が得られた。
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