本研究の目的は、東北日本の一関藩を主なフィールドに、一関藩の「育子仕法」のなかで作成された史料群をおもな手がかりとしながら、武士、農民家族の性と生殖の世界を、妊娠、出産、子育てという具体的な局面で、また家族のラィフサイグルとも関わらせつつ明らかにすることにある。 とくに武士に対する懐妊、出産取り締まりや育子手当に関する研究は、史料の発掘も含め、いまだ未開拓の分野であるが、一関藩には、武士の懐妊、出産取り締まりに関する史料が数多く残存している。そこで、今年度は、武士の懐妊、出産取り締まりに関する史料から抽出できた939件の事例のデータベース化と分析をおこない、武士層のなかでも、とくに「家」の維持・存続と子どもの養育との矛盾に晒された下級武士層の産むこと、産まないことをめぐる選択について追究した。 その結果、武士は農民に比べ多産のうえ頻産なうえ、女子より男子を選択する傾向が強いといった農民との違いが明らかになった。その一方で、高い死産率や妊娠末期の死産の多さは農民と共通している。こうしたいのちのあり方は、農民と下層武士がともに、「家」の維持・存続と妊娠、出産、子育てとの矛盾を抱え、その矛盾解消の手段の一つとして堕胎・間引きを必要としていた結果と見ることが出来よう。 そうしたなかで、女性自身にしか知りえない月経停止や妊娠の自覚に依拠せざるを得ない矛盾を孕む「育子仕法」は、「家」の維持・存続と妊娠、出産の矛盾を避けるために出生コントロールを行おうとする農民や下級武士と対峙するなかで、人々の出生コントロールへの意思そのものを問題とするに至る。その試みは、「家」のなかの夫婦の性や生殖という私的な領域まで入り込み、また性と生殖管理に医者が重要な役割を果たす点で、日本の近代に連続する側面を持っていたことも明らかとなった。
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