本年度は、「道徳の基礎付け」をめぐる自然主義の考え方を内在的に検討するために、一旦、自然主義の主戦場である心の哲学及び脳科学の分野に着目し、そこで起こりうる「自由と責任」等の倫理学的問題にどのように答えているかを検討した。そこで確認できたことは、公益性の観点から新しい技術に応じて擬制的道徳システムを再検討すべきとする立場から、既存の道徳性の観点から技術の応用を制限すべきとする立場まで、対応の仕方に幅があることである。その上で、われわれが本研究の手がかりにしようとしているカントの心の哲学及び実践哲学を、現代の自然主義者がどのように評価し、いかなる点に限界を見ているのかを確認した。カントの心の哲学は、現代の認知科学に先駆する側面を含むものとして肯定的に受け取られる傾向にある一方で、カントが道徳のために留保した形而上学的側面は、自然主義者から「一種のおとぎ話」と評され批判されていることが明らかとなった。そこでこのカントにおける自然主義の水脈を心の哲学から実践哲学に向けて辿ることで、どの地点でどのような理由からカントが自然主義にとどまることができなかったのかを検証した。カントが道徳に独自の形而上学的意味を求めていたことは言うまでもないことであるが、他方彼の実用的人間学においては、今日の自然主義者や社会心理学者が指摘する道徳の欺瞞的で虚構的側面、言いかえれば人間を操作する道徳の機能の側面をカント自身も認め、その効用を実用的で社会形成に有用なものと捉えていることが明らかとなった。むろんそうした機能が有用性には限界があり、そこにとどまる限り真の道徳の地平は開けず、日常的で公益的な道徳の機能からの飛躍ないし脱却の必要性をカントは唱えるのではあるが、そうだとすると現代の自然主義者から見てカントの道徳形而上学はいよいよ「おとぎ話」でしかない疑いが強くなる。はたして自然主義者も認める日常の道徳の機能を越えて形而上学として道徳を語ることにどのような意義があるのか、そのことを明らかにすることが次年度の課題であり、その課題の解決の途上で弁証論の意義が再評価されることになる予定である。
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