ハイデガーの存在思惟を「聖なるもの」という視点から捉え返すことによって、「倫理」を再構築する上で不可欠な2つの視点を明らかにした。 1 〈共同社会〉から〈協働社会〉へ プラクシスを「一種の根源的ポイエーシス」と見るハイデガーは、日常性に深く刻み込まれた暴力性を「総駆り立て体制Ge-stell」として暴き出し、死すべき者としての人間の住まいを開拓する試みを、ポリスなき者としての詩人や思索者の創設に委ねる。このことは、人間の本来性を「死への先駆的覚悟性」という単独化の内で捉える立場を脱構築し、「死すべきもの」として四者連関の中で捉える「他なる始まり」の探求へとハイデガーの存在思惟が深化したことを意味する。各私性という視点からの平均的日常性批判は、全体性や一般性に解消されることに抵抗する個的契機への配視に他ならず、個人の能動的関与が強制されるもたれ合い的〈共同社会〉に対して、個人の自律性を基盤としながら相互に支え合う〈協働社会〉への通路を切り開くものとして読み解きうる。不気味さがもたらす不安は、確かに、私たちの存在基盤を揺るがし破壊的な結果を招来する危険性を宿す。しかし同時に、能動性・積極性なるものが総駆り立て体制の中で強制されたものであることに気づかせ、自らの内なる声にじっくりと声を傾けるという能動的な受動性を媒介にして、〈自己〉を再構築していく機縁ともなりうるのである。 2 自然の一環としての人間という視野 初期ハイデガーにおけるピュシス論の射程を考察することによって、人間から自然を理解するのではなく、自然の一環として人間を理解することで、自然における人間の独自な役割とその限界を考える可能性が切り開かれてくる。
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