ハイデガーの存在思惟を「聖なるもの」という視点から捉え返すことによって、「倫理」を再構築し、教育における「権威」の可能性を切り拓くという研究課題に精力的に取り組み、以下の2点を明らかにした。 1公共性の再生を可能にする基軸としての「自己」という視座の重要性 不気味さがもたらす不安は、われわれの存在基盤を揺るがし破壊的な結果を招来する危険性を宿している。しかし他方で、不安は、われわれの能動性・積極性なるものが総駆り立て体制の中で強制されたものであることを対自化させる契機でもあり、自らの内なる声にじっくりと声を傾ける能動的な受動性を媒介にして、〈公共性〉の再生を可能にする〈自己〉を再構築していく機縁ともなりうることを明らかにした。 2学校現場との協働作業による「聖なるもの」という位相の教育上の可能性の探究 「聖なるもの」という位相が教育現場においてどのような意味を持ちうるかについて、具体的教育活動の検討を通して明らかにするために、中学校教員との協働作業を継続的に行った。学びから逃走している子どもたちの現実を見据えるならば、受動的能動ということが強いられる状況そのものを問い直す必要性が確認された。そして、教科指導に際し、他者の意見への傾聴を促進し、この過程で開けてくる「聖なるもの」の次元へと学習者の注意を促していくならば、他者との協働関係を構築し自立的な学びを可能にする能動的受動の姿勢である「溜め」や「有能感capability」を学習者に習得させていく可能性があることを確認した。
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