本計画では、ロシア哲学に存在一般を人格的に理解しようとする「人格的存在論」と呼ぶべき傾向があることに着目している。今年度はローセフの主著の一つ『名の哲学』における言語哲学的議論の分析から、問題の広がりとその意義について考察した。 ローセフの言語論は、我々が具体的に言語を使用する局面において、言葉とそれが表示しようとしている「対象」とがどのように関わるのかを問題とし、言語的主体と対象との関係が存在論的接触としてあり、それが対象の認識可能性の根源をなしているという立場に立つものである。 言語が何らかの対象や事態を表示する場合、それらに対する一定の理解が言語的表現に内在化されているはずであり、対象はこの一定の理解に対応した「理解されるもの」として定立されている。そこには、言表される対象の本質に対する理解が、完全ではないにせよ、反映されている。言い換えれば、言語使用の局面において言葉と対象は不完全ながらも一致していると主張しうるが、我々がこうした理解を他者と共有し、コミュニケーションを成立させているとすれば、対象に対する「理解」や「意識」は言語によって外化されていると言わなければならない。 この「理解された対象」は、それ自体が一定の意識化作用を客体化したものであり、意識を外部に投影したものであるが、同時にこの外部化された意識があたかも自立的に現れているかのように捉えさせる契機もはらんでいる。ここから存在が「人格的に」捉えられる事態が生じうると言え、言語表現そのものが「人格性」と共に現出する可能性が開かれる。本年度の分析では、ローセフの構想がこうした人格的言語存在論の理論的基礎を置くものであること、それによってカント主義的な認識論の枠組みとは異なる現象学的言語論を構築しようとするものであることを明らかにした。 そして、以上の分析結果に基づき、9月にボルドーで開催された国際会議と3月の国内の学会とで計2本の口頭報告を行った。
|