嘉靖年間は元朝以来の文化伝統を踏んだ大元ウルス体制から中華帝国に変換する時期にあたり、その文化を支える基盤として、出版による中国伝統文化の再構築が行われた時期であった。この時期以降、宋版等の出版物が複刻された。この動きの中で、宋元以来、社会に伝承されて来た民族叙事が、中国詩文文化の力を取り込み、小説や長篇戯曲となった。同時に、仏道両教を平易にした大衆宗教もその潮流に乗り、経典作成にあって、積極的に中国物語を取り込んだ。関帝信仰は、国家護持のもと大衆社会にも広範に受け入れられ、一つは三国志演義大成の道すじをつけ、一つは、関帝宝巻として羅教系統の大衆地域信仰の骨格を支えた。従来の宗教結社とは異なる遵法の教団としての性格を顕示するため、羅教では宗教活動の本拠地である山東方面の関帝の他、二郎神、孟姜女、泰山娘々などの護国神を教義に摂取して行き、教派系宝巻を作成する。教派系宝巻は、体裁を整えるために仏教経典の版式に則り、木版本として流布しようとする姿勢に立つ。しかし、本来、在俗の大衆に近い教主による立教と教団形成、教義の文章化の中で、個々の神格をめぐる故事と教団の経典としての表現には統一性を持たず、その誕生時から、教派系と故事系へ宝巻が分化する要素を内包していたのである。しかし、注目すべきは、教派系宝巻が摂取した二郎神や孟姜女などの英雄傑女をめぐる叙事的物語は、伝承的流動性を持ち、今日、既に存在しない物語要素を含む点で見るべき点も多い。この潮流の中で、関帝宝巻は三国志演義の宗教版異本の一種とも見なし得る。
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