本研究の目的は、ゲヴァルト(主体の支配・統御に関わる暴力)とヴァイオレンス(主体の統御を超えてほとばしる暴力)という<暴力>の二つの側面に着目し、この両者がどのように絡み合っているのかを解明することである。昨年度は主にゲヴァルトを軸とした暴力論、とりわけ「主権」論を真っ向から批判するA・ネグリ/M・ハートの議論を検討の俎上に載せた。今年度はこれをふまえて、あらためてC・シュミットの「主権」概念に立ち戻り、その問題性について再検討を加えた。 周知のようにシュミットは「政治的なもの」の核心には「闘争」があるとみていた。そうした「闘争」は原理的には「社会」のさまざまなレヴェルで生じうる。ところがシュミットは「闘争」の場面を「主権」「国家」のレヴェルに限定する。このように「闘争」の場面を「社会」から放逐した点に、彼の議論の大きな問題があるといえる。つまりシュミットは、「主権権力」(ゲヴァルト)についてはとらえていたが、ヴァイオレンスの次元については等閑に付していた、ということであろ。とはいえ「例外状態」に「主権権力」(ゲヴァルト)の生成の場面をみるシュミットの議論そのものは、ヴァイオレンスとゲヴァルトをつなぐ理路を考えるうえで、重要な示唆を与えるものでもある。ヴァイオレンスの次元の「闘争」のただなかから「主権権力」(ゲヴァルト)による支配関係が成立するという視座が、シュミットの「例外状態」論には含まれていた、とみることも不可能ではないだろう。しかしシュミット目身はそれを展開するにはいたらなかった。これはW・ベンヤミンの暴力論とも通底する構図である。 本研究としてはこうしたシュミットの「例外状態」論を一つの手がかりにしつつ、あらためて「社会」の場面に問いを差し戻し、ヴァイオレンスの次元の「闘争」から主権的な政治空間がいかに成立するかという問題を考えたい。これが次年度の課題となる。
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