これまでの西洋政治思想研究には、「法」の優越性を死守しようとする立場と、「法の外部」の意義と重要性を強調する立場との対立を見て取ることができる。その中で本研究が目指すのは、両方の立場を見据えながら、カール・シュミットのいう「政治的なもの」の概念を批判的に受容し、西洋政治思想史全体を「法」と「その外部」との対立的かつ補完的関係として読み解くことである。 19年度は、ヘーゲル思想における「法」と「その外部」について研究した。 1800年までの若きヘーゲルにとって「法」は、ユダヤ的律法も、「実定法」も、カント的「道徳法則」も、生き生きとした愛の息吹を受けつけない「死せるもの」であった。「法」の肯定面はほとんど省みられず、いわば素朴に法の外なるもの-それは「愛」によって代表される-の優位が説かれているといえよう。この時期の草稿・断片類を再構成しつつ読み直し、「法」と「法の外部」の対立面が強調されていることを示した。イェーナ期(1801-1806)では一転して、「法」はその社会的政治的側面から詳細に考察される。「愛と生」の思想が「承認」を中核とする構想にとって変わると共に、「生けるもの」や「愛」に対立するとされていた「法」は、むしろ「承認」と不可分なものとして捉えなおされていくということを、イェーナ期の諸草稿に即して考察し、この時期には、対立面ではなく宥和の側面が強調されていることを示した。 体系期のベーゲルは、「法」と「法の外部」との対立と宥和との両方に気づくことになる。多くの講義と著作を積み重ねた法哲学構想の発展の中で、抽象的な法が主観的な道徳と合一する、「生きた善」・「生きた法」の境地である人倫概念を完成する。そこでは宥和が成り立っているように見える。しかし家族から市民社会を経て国家に結実する人倫の理想は、一国家の内部ではともかく国際関係における国家間抗争にさいしては効力をもたない。そこで威力を振るうのは、「絶対精神」という名の「歴史」であり、しかもそれは国家内部の「政治的なもの」をも背後から生み出している。宥和は、実は最終的に「法の外部」が「法」に優越する形でもたらされる。このことを、法哲学講義及び『法の哲学要綱』を新たな観点から読み直すことによって明らかにした。
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