この年度は、西洋政治思想史を遡り、古代からヘーゲルの思想に至るまでの「法」と「法の外なるもの」の系譜を跡づけた。このことによって、この対立こそが、「政治」の根幹をなし、また近現代に至るまでのさまざまな政治思想を生み出してきたことを明らかにした。 1.プラトン対話編『ゴルギアス』において、ソクラテスはゴルギアスの弁論術は、政治の技術ではなくて、にせの政治術、あるいは政治術の影のようなものであるとする。「弁論術は、政治術の一部門の影のようなものである」。これに対し真の弁論術とは、「市民たちの魂ができるだけすぐれたものとなるようにしてやり、そして聴衆にとっては、快いことになろうが、不快なことになろうが、いつでも最善のことを語って、終始一貫、その態度を守り通す」ような弁論術である。しかしこのような善を目指すものとしての技術という真の弁論術は、実は「政治的なもの」に対しては無力である。 2.アウグスティヌスはその著『神の国』において、「二つの国をつくりしは二つの愛なり。地の国をつくりしは、神をさげすむほど己自身を愛する愛であり、天の国をつくりしは、己自身をさげすむほどすでに神を愛する愛なり」と述べる。ここにおいて宗教と世俗、「神の国」と「地の国」とは峻別され、あいいれないものとされている。しかし実は「神の国」の概念自体が一義的なものではなく、「来るべき神の国」であるにとどまらずにその「現在性」が問われるとき「地の国」との関係が、ひいては「政治的なもの」との関係が問題にされざるをえない。 3.グロティウスに始まる「近代自然法思想」において、自然法は人間本性に基づく法として、超歴史的な法的正義を包含するものと考えられている。これに対して、19世紀初頭の歴史法学派による自然法論批判から、自然法を否定して国家法のみを法とする法実証主義に至る反自然法論の系譜が対置される。 4.最後に上記の三つの契機に見られる対立を総合しようとする試みが、ヘーゲルの法哲学のうちに見出されることを結論した。
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