1. 2009年度は、第一に再びヘーゲルに戻り、ヘーゲルの[歴史哲学」を、これこそが法の外部であるという視点から再解釈した。なお、最近になって講義録の正確な校訂版の一部が入手可能となったため、その意味でもこのテクストの詳細な検討が必要であった。 このような事情もあり歴史哲学はヘーゲルの著作のなかでも悪評高いものであった。とりわけ、リベラリズムの立場からは、ヘーゲルの歴史観のうちに、アジアから出発しゲルマン文化を頂点とする自文化中心主義的な史観を見出し、後のナチズムに結びついていくような全体主義的傾向を指摘する批判が多く見られた。このような批判はもちろん的外れである。しかしヘーゲル研究者がしばしば行ってきたように、この批判に対して簡単に反発したり「ヘーゲルのリベラルさ」を強調したりすることもまた、むしろヘーゲルの歴史哲学の価値を見失わせるように思われる。本研究ではヘーゲルの歴史哲学がそのようなある種の「危うさ」を孕みながら、それゆえに「政治的なもの」のデモーニッシュな姿を生々しく捉えている点に着目した。それはカール・シュミットの政治思想が一面では現実にワイマール共和国の崩壊に寄与しナチスに荷担したとされながら、当時の政治的現実を冷徹に見抜いていたことと通底する。 2. そこで第二に、ヘーゲルから、ニーチェの「力への意志」の構想を通じて、カール・シュミットへつながる西洋政治思想史上の一本のラインを見出だし、考察することを試みた。シュミットの「政治的なもの」-それは「敵-味方」関係としてのみ捉えられるものであり、集団が敵対関係に置かれ、それぞれが他方を和解不可能な敵として認識するに至ったとき初めて立ち現れるものである。このような状況において「主権者とは、例外状態において決断を下すものである」(『政治神学』)といわれる。この決断は法に拘束されず、法の外部に存する。この規定自体が、ヘーゲル以来の一つの特異な歴史哲学に属することを解明しようとした。 3. 第三に、上記の系譜に挑戦し対決する現代の思想家たちを取り上げて考察した。ハーバーマスとフランクフルト学派、現代リベラリズムの新潮流、ポストモダニズム、共同体主義からの挑戦について考察し、それを通じて、現代において我々自身が直面する「政治的なもの」とは何かに迫ろうとした。
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