泉鏡花記念館・金沢能楽美術館と連携し、共同で開催した展示・対談等において、近世から近現代にかけての金沢の能楽史の展開と泉鏡花作品、とくに『歌行燈』の背景・素材となる東京及び地方の能楽史の交差する状況を把握することに取り組み、「『歌行燈』を能楽で読む」という論文の中に多くの成果を盛り込むことができた。具体的には、侯爵津の守に投影する明治期尾張徳川家の能楽への打ち込みぶり、伊勢の山田をはじめとする明治40年頃の全国的な能楽隆盛の状況を雑誌『能楽』の記事により地域と流儀で鮮明にしたこと、作中の雪叟に三須錦吾の像が明らかに投影すること、宝生九郎・松本金太郎・松本長が名古屋に来演していること、鏡花が見た可能性のある<海人>の舞台を絞り込んだこと、瀬尾要や木村安吉、また九郎と金太郎など、モデルと実在の能楽師との関係を先行研究を踏まえで正確に把握したこと、喜多八がお三重に伝授するのに玉の段を選び、お三重がそれを習得できたわけを、お三重の体験が喜多八に玉の段を連想させ、体験ゆえに自分を役に重ねることが可能だったことに求めたこと、お三重らが謡い、舞い、囃す対象こそは玉の段であっても、玉の段を無芸のお三重が舞い、はぐれた源三郎と喜多八が謡い、雪叟と桑名の自然が囃すという奇跡の舞台が実現している意味では、<海人>の前場にある玉の段より、海人の幽霊が竜女を経て成仏する後場が、能から『歌行燈』に取り込まれていると見るべきことや、喜多八が宗山の影を引き敷く結末は、その影から解放されたのでも再び宗山を退治するのでもなく、喜多八は謡いたい自分のために謡うのであることを明確にしたこと、明治27年の「能楽規約書」と照らし合わせて、登場人物たちが能楽師の規範を逸脱して覚悟の至芸を交響させていると読むべきこと、などが収穫である。これに関連して、新潟・石川・愛知・三重各県の地方自治体史における能楽史記述を確認し、佐渡の本間令桑像と伝える「鉢木図」を入手した。
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