本年度は、ミショー、ジャベス、メショニックについて、それぞれの思想を、その言語観を中心に考察した。また、詩人たちの言語観と、言語学や詩学との関連を探るため、特にヤコゾソンの思想をまとめた。20世紀後半の詩人たちにとって、詩の言語学は、ソシュールを祖とする言語記号の言語学ではなく、言語行為の言語学になりつつある。これはすでにシュルレアリスムの詩人たち、ボヌフォワやコクトーなど、昨年度までにすでに分析した詩人たちの思想にも共通していることである。言語行為の言語学とは、東京大学名誉教授竹内信夫が、メショニックの『詩学批判』のあとがきにおいて記しているように、バンヴェニストの言う「意味とそれを支える主体が問題の中心に置かれている言語学」である。つまり、詩を言葉で書かれた対象ととらえるのではなく、詩を読むこと、書くことの中で生まれてくる具体的な経験だけを対象とするのである。ここでは、詩をテクストとして客観的に分析する態度は否定される。これに対し、ヤコブソンは、ソシュールの流れを汲み、『言語学と詩学』において、詩を機能的側面から分析している。当初の計画では、ヤコブソンの思想を知ることで、詩というものを言語学者がどう扱ったかを考察する予定であったが、実際に調べてみると、詩学はもっと遠く、深い地点に到達しているようである。20世紀の詩人たちにとって、詩作品は単に言語によって書かれたものであることをやめ、詩人と読み手が対峙する場として存在しているように思われる。本年度の分析は、言語学と新たな詩学とのずれを指摘するにとどまったが、来年度はこの点について、バンヴェニスト、コーエンなどの思想も踏まえながら、言語の作品としての詩を分析する言語学、詩学と、主体の問題に関係する詩学との分岐点を探ってみたい。
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