ダイグロシア状況があるといわれるスイスのドイツ語圏における言語状況について考察した。標準語と方言が主に媒体手段により使い分けられながら並存しているが、それぞれの変種の使用領域は社会的背景により変動してきた。標準化という時には、ドイツ語の単一中心地的言語観によると標準語の標準化、複数中心地的言語観によると標準変種の標準化、他のドイツ語圏からの隔絶に向けた言語政策では方言の標準化が問題になる。また、脱標準化を多様性の容認と捉えるならば、方言の使用領域拡大と並んで、複数の標準変種を認めていく立場も問題になり、変異形の認定作業が焦点となってくる。 標準変種と方言のせめぎあいは、態度研究によりその変動の一端を垣間見ることができる。ドイツ語圏の中心地であるドイツに対する距離感の取り方が、スイス標準変種への態度の変動に反映され、方言をアイデンティティの礎としながらもスイス標準変種を放棄できない状況が、スイス人のスイス標準変種に対する否定的態度として表出されている。 複数中心地的言語観の影響は規範典にも反映されている。Kurt MeyerによるSchweizer Worterbuch(2006)は、スイス標準変種の記述を目的としているが、内容的にはMeyerが1989年に出版したWie sagt man in der Schweizを踏襲している。2006年版では複数中心地的言語観を前面に出す形で修正されており、また1989年版がドイツで刊行されたのに対して、2006年版はスイスで刊行するなど、内部規範性を強化する意図が感じられる。 以上のように、標準変種の標準化と方言の使用領域拡大が進行し、両変種が混在する場面が増えつつあるが、ダイグロシアが解体するほどの兆候は見られないことが明らかになり、標準化と脱標準化の意味を考える基盤を形成できた。
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