今年度は、畿内近国地域の河川沿岸村々に残されている、開発および災害防止・復旧システムに関する近世史料の収集に努めるとともに、17世紀において進行していた淀川・大和川筋における川筋問題と、それに対する幕府の治水策の実態と特質について検討し、「宝永元年大和川付け替えの歴史的意義」(大和川水系ミュージアムネットワーク編『大和川付け替え三〇〇年 その歴史と意義を考える』)と題する論文を発表した。その概要は、以下の通りである。 17世紀中後期、淀川・大和川筋においては、上流山間部からの土砂流出や、ある種の水制施設の設置により、スムーズな川の流れが妨げられる傾向にあった。この事態は、洪水時における水害の危険性を高めることになった。幕府は、これに対処するため、大河川治水システムである国役普請制度を発足させるとともに、寛文期・貞享期・元禄期に、役人を派遣して河川整備事業を実施した。この河川整備事業は、淀川・大和川筋への土砂流出を抑え、各種疎通工事によって川の流れをスムーズにするというものであった。国役普請制度と、このような内容をもつ派遣役人による臨時的な河川整備事業の組合わせが、17世紀後半期摂河地域における幕府治水体系の実態であった。 しかし、堤防(国役堤)や護岸・水制施設の現状維持を図るシステムに過ぎない国役普請制度と、土砂留の徹底と各種疎通工事にとどまっていた派遣役人による河川整備事業をもって、大和川筋の水害問題を根本的に解決することは不可能であった。大和川沿岸の村々が水害から逃れるためには、大和川を付け替え、淀川と大和川を分離するより他はなかったのである。こうして、宝永元年(1704)に大和川付替普請が断行されたのである。
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