本年は、外交史料館所蔵の同仁会関係資料を中心に資料の読み込みを行った。そして、日中戦争勃発後に、なぜ、同仁会が、対中防疫活動に乗り出したのかを明らかにした。 国際連盟の対中援助は、中国に欧米重視の外交政策を放棄させたい日本にとって障害であった。そのため日本外務省は、中国に対する日本の影響力の拡大を期して、同仁会による対中国防疫支援政策を打ち出したのであった。 しかし、日本の同仁会による防疫班の位置は、軍の命令下に置かれ、独自の行動は許されておらず、活動は必然的に日本軍のための宣撫とならざるを得なかったことを明らかにした。 当時多数の医療者が、中国大陸に渡り、防疫活動に従事したことに関する評価については、難しい課題である。医療者個人の主観とは異なり、国民政府にとっても共産党にとっても、彼らは招かれざる客であった。ここに、防疫活動を相手国の意向を無視して行うことの問題性がある。紛争や戦争状態にある国家間の場合は特にそうである。所詮外交の目的は、慈善事業ではなく国益の確保にある。その外交手段としての医療は、果たして現地の人々の利益に単純に直結するであろうか?という問いが残った。 また、海外調査では、同仁会が中国の上海や南京において、診療所や病院を設置した場所を訪れ、当時の建物が現存していることを確認した。上海・南京のそれらの施設の中には、英米系キリスト教関係の病院であったものを日本軍が接収して、同仁会病院に使用させていたものもあった。そして、それらの病院は、中国の医療機関として存続していることも確認した。
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