昨年度、科研費によって行った南京の鼓楼医院や旧1644部隊跡地の調査を踏まえ、今年度は、「南京事件の難民への医療支援」を執筆した。本稿は、同仁会の診療班と防疫班がどのような経緯で、南京事件後に派遣されたのかを現地のじょうきょうを詳述しつつ明らかにし、その同仁会の医療が、現地難民にどのように受け止められていたのかにふれつつ、医療支援のあり方について考察したものである。 同仁会派遣以前、南京陥落に際して、南京安全区国際委員会が南京に在住した欧米人n企業人・宣教師・大学教員・医師たちによって設けられた。その中の医師たちは、主に安全区内の鼓楼医院において多くの患者・被災者・難民の治療にあたった。 しかし、日本軍は、難民救済が、南京市自治委員会の所管事項であるとして、欧米人でつくる安元区国際委員会の影響力を極力排除しようとした。また、日本軍の占領統治を効果的に行うために医療宣撫活動が必要となった。そのために派遣されたのが、同仁会の診療班と防疫班であった。実際の医療現場では。戦争の被害者である南京市民が、軍を背景に持つ同仁会に対して信頼を寄せるには、溝がありすぎて、困難であった。しかし、同仁会の医療者たちは、患者獲得を真座して、献身的に努力してしていことも事実であった。
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